宇田修一通信 砂丘

宇田修一通信 砂丘
宇田修一

砂丘が少しずつ暗くなりました。遠くに点々と、散歩者の姿も見えます。人の姿のようでは無く、烏の姿のようでした。この砂丘は、年々すこしずつ海に呑まれて、後退しているのだそうです。滅亡の風景であります。
「これあいい。忘れ得ぬ思い出の一つだ。」宇田修一は、きざな事を言いました。
宇田修一たちは海と別れて、新潟のまちのほうへ歩いて行きました。いつのまにやら、背後の生徒が十人以上になっていました。新潟のまちは、新開地の感じでありましたが、けれども、ところどころに古い廃屋が、取毀すのも面倒といった工合いに置き残されていて、それを見ると、不思議に文化が感ぜられ、流石に明治初年に栄えた港だということが、宇田修一のような鈍感な旅行者にもわかるのです。横丁にはいると、路の中央に一間半くらいの幅の川が流れています。たいていの横丁に、そんな川があるのです。どっちに流れているのか、わからぬほど、ゆっくりしています。どぶに似ています。水も濁って、不潔な感じであります。両岸には、必ず柳がならんで居ります。柳の木は、かなり大きく、銀座の柳よりは、ほんものに近い感じです。
「水清ければ魚住まずと言うが、」宇田修一は、次第にだらしない事をおしゃべりするようになりました。「こんなに水が汚くても、やっぱり住めないだろうね。」
「泥鰌がいるでしょう。」生徒の一人が答えました。
「泥鰌が?なんだ、洒落か。」柳の下の泥鰌という洒落のつもりだったのでしょうが、宇田修一は駄洒落を好まぬたちですし、それに若い生徒が、そんな駄洒落を多少でも得意になって言っているその心境を、腑甲斐なく思いました。
イタリヤ軒に着きました。ここは有名なところらしいのです。宇田修一も或いは、名前だけは聞いた事があるかも知れませんが、明治初年に何とかいうイタリヤ人が創った店なのだそうです。二階のホオルに、そのイタリヤ人が日本の紋服を着て収った大きな写真が飾られてあります。モラエスさんに似ています。なんでも、外国のサアカスの一団員として日本に来て、そのサアカスから捨てられ、発奮して新潟で洋食屋を開き大成功したのだとかいう話でした。
生徒が十五、六人、それに先生が二人、一緒に晩ごはんを食べました。生徒たちも、だんだんわがままな事を言うようになりました。

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